右から赤城修司さん、堀江敏幸さん、大竹昭子。
赤城さんは福島市内の高校で美術教師を務めていますが、震災の翌日から周囲の様子をカメラに収めはじめ、いまもつづけています。これまで50回近く講演してこられましたが、今回のトークのために彼は「がんばろう!福島」というスローガンを撮った写真をセレクトしました。それを見せながら語った彼の言葉からは、街のいたるところに、「がんばろう!」があふれていた異様さが伝わってきました。
原発事故が起きたとき、赤城さんがまず思ったのは子どもたちを安全な場所に逃がそうということでした。密かにポスターも自作しますが、公の立場からそのような発言は出てこず、がんばることだけが叫ばれました。がんばるにはこの地に留まることが必然であり、まるで戦時中の一億玉砕のようだったといいます。
前半は、赤城さんの写真をスライドで見ながらトークを聞く。
赤城さんは著書『Fukushima Traces 2011-2013』(オシリス)のなかでこのように書いています。震災後の3日間、人々は肩書き、年齢といったものにとらわれず、目の前の人を助けるために自ら動いていた。「立場」でものを言う人はいなかった。でも、組織が動きだすとそれが一変し、みなが組織の判断を仰ぎ、自分で考えたことより上からの指示を優先するようになり、さまざまなことがちぐはぐになった……。
教育現場にいる赤城さんは学校でも日々それを感じています。映された動画のひとつには生徒が「起立、礼、着席」の号令のもとに行動するシーンがあり、学校から遠ざかっている私にはどこか別の国の光景のように思えたものです。このように、生徒にものを考えさせまいとする教育が進行していることと、「がんばろう福島」が連呼されることが無縁であるはずはありません。
赤城さんのスライドより。
安東さんの著書について簡単に触れておくと、彼女は震災後、福島に留まりたい人のために「エートス福島」という活動を立ち上げ、放射線量についての知識の獲得や測定作業をはじめます。『海を撃つ』には、人と一緒に行動をするのが苦手だった彼女が、止むに止まれずこの活動をはじめた経緯、その途上で感じ考えたことなどが時間を追って語られていきます。私はこれをひとりの女性の行動の軌跡として興味深く読み、また文章が内省的であることにも好感をもち、トークで取り上げたいと思ったのでした。
赤城さんは安東さんの活動を知っていましたが、留まることが前提の内容に当時は反発を抱いたと言います。社会全体がひとつの方向に流れていく危険を感じていた彼にとって、それを助長する動きに思えたのは当然でしょう。「あの活動に救われたという人がいること、職業上、逃げたくても逃げられない人がいることは、いま振り返ってみればわかるけれど、あのときはこの事故に対して自分はどういう態度をとるべきか、それだけを考えました。留まることは過ちを犯した政治に一票を投じることになる、そう思ったのです」。
起きてしまったことを受け入れ、何ができるかを考えようとした安東さん。「逃げる」ことが事故への責任のとり方だと考えた赤城さん。どちらも自分自身に真剣に問うたがゆえの判断ですが、政治に都合のいい方が拡大し、流れが一方向に決まっていったことに赤城さんは敏感に反応したのでした。
赤城さんは社会を疑い、群れることを嫌いますが、自分を疑うことも忘れてはいません。聴衆の前に立つと、自分があたかも「正しい」ことを語っているような雰囲気になり、美談のように受け止められるのには違和感がある、本当は自分の言ったことに反論する人がでてくるべきなのだ、という彼の言葉から学ぶべきことは多いと思いました。
同じく教育の現場に関わる堀江さんからも「ナマの声」が。
「ことばのポトラック」はロジックを突き詰める場ではなく、言葉にしにくいもどかい思いや、自分のことばを見つけようとする姿をみんなの前にさらす場なのではないか、また観客が求めているのも答えや結論ではなく、書きことばでは伝わりにくいナマの声が放つエネルギーなのではないか、改めてそう感じられたとても緊張感のある時間でした。
いつもはわたしがインタビュアーになり、堀江さんは少し引いた視点でそれをまとめるという役回りでしたが、今回は堀江さんが身を乗り出して発言されていたのが印象的でした。教育現場に関わっているおふたりが、個の立場でしか仕事をしてこなかった私のような者にはわからない、教育の危機を感じておられるのを実感いたしました。(大竹昭子)
最後に記念写真を
写真提供:稲木紫織さん