右からゲストの鴻池朋子さん、ホスト役の堀江敏幸さんと大竹昭子
毎回、「ことばのポトラック」では、大震災が起きたあの日のことに記憶を巻きもどすことからはじめます。
鴻池朋子さんはそのとき東京で個展が開催中でした。修復のために一旦閉鎖され、再開して行ってみると自分の作品がひどくよそよそしく感じられ、「なんでこんな絵を飾っているんだ」という苛立ちの言葉を思わず紙に書きつけて作品の下に貼付けます。これまで言葉を付けることに抵抗してきたので、「自分らしくないことをしている」と感じたそうです。
社会全体がなにかに気を使い、自らを抑制していることへの違和感も強くありました。「悲しい」とか「辛い」とか、自分にはしっくりこない言葉を述べることを周りから求められ、うまく喪に服することができてないのです。また、ワンセグでつぎつぎと届く津波の映像に、つぎは何が来るんだと興奮し、欲望が前のめりに出てしまったことにも驚きました。このことはキチンと心に留めておかなければならないと思った、と言います。
このような自分のなかから浮上してきた問いには、描くだけでは明らかにならないものが数多く含まれていました。それから5年間、彼女は作品制作を止め、美術の範疇ではとらえ切れない行為に入っていきます。
その典型な例が「物語るテーブルランナー」です。地元秋田の女性たちに、辛かったこと、奇妙な出来事、不条理な体験などを話してもらい、それを鴻池さんが下図に描き、ランチョンマットを刺繍してもらうのです。
その体験で印象深かったのは、語り手の表情から、話が脚色されていたり、なにかが隠されていたり、噓を言ったりしていることがわかること、生きてきた痕跡が表情のレイヤーになって見えることでした。人から話を聴くというのは、実はそういうことを目撃することなのだ、という認識に至るのです。
絵画では絵筆が紙の表面を水平移動するだけですが、手芸では布に針を突き刺し、裏側に出て、またもどってきます。表と裏の境界を突破すること、両面にその痕跡が残ることに、絵画との大きな違いがあります。「つまり、人の表情と内面の行き来とおなじことが起きているわけです」という指摘は、とかく芸術よりは下のものと見なされる手芸の奥深さに気付かせ、心に残りました。
絵描きにとって画材の選択は重要ですが、鴻池さんは震災後、キャンバスではなく、動物の皮をつなぎあわせた上に描くようになります。それは「空白の矩形」という境界を突破する行為として意味があり、昨年、カンザスの博物館でジオラマのなかにオブジェを設営するインスタレーションワークをおこなったのも、その延長上にあることが、お話を伺ううちにわかってきました。
つまり、彼女のおこなうことに、何ひとつつながっていないものはないのです。
このように整理して述べると、すらすらと物事が進んだように思えますが、実際にはなかなかつらい6年間だったと振り返ります。言葉で自分を追い込んでしまう息苦しさ、直観力をストレートに出せない閉塞感があったのでしょう。
でも、立ちはだかる壁を突破するのに、言葉の力が求められることがあるものです。
そこで挫折せずによじ登っていく人は、必ずや自分の言葉をつかんで制作にもどってきます。鴻池さんのお話しを聞きながら、そのことを強く感じました。
鴻池朋子さんはそのとき東京で個展が開催中でした。修復のために一旦閉鎖され、再開して行ってみると自分の作品がひどくよそよそしく感じられ、「なんでこんな絵を飾っているんだ」という苛立ちの言葉を思わず紙に書きつけて作品の下に貼付けます。これまで言葉を付けることに抵抗してきたので、「自分らしくないことをしている」と感じたそうです。
社会全体がなにかに気を使い、自らを抑制していることへの違和感も強くありました。「悲しい」とか「辛い」とか、自分にはしっくりこない言葉を述べることを周りから求められ、うまく喪に服することができてないのです。また、ワンセグでつぎつぎと届く津波の映像に、つぎは何が来るんだと興奮し、欲望が前のめりに出てしまったことにも驚きました。このことはキチンと心に留めておかなければならないと思った、と言います。
このような自分のなかから浮上してきた問いには、描くだけでは明らかにならないものが数多く含まれていました。それから5年間、彼女は作品制作を止め、美術の範疇ではとらえ切れない行為に入っていきます。
その典型な例が「物語るテーブルランナー」です。地元秋田の女性たちに、辛かったこと、奇妙な出来事、不条理な体験などを話してもらい、それを鴻池さんが下図に描き、ランチョンマットを刺繍してもらうのです。
その体験で印象深かったのは、語り手の表情から、話が脚色されていたり、なにかが隠されていたり、噓を言ったりしていることがわかること、生きてきた痕跡が表情のレイヤーになって見えることでした。人から話を聴くというのは、実はそういうことを目撃することなのだ、という認識に至るのです。
絵画では絵筆が紙の表面を水平移動するだけですが、手芸では布に針を突き刺し、裏側に出て、またもどってきます。表と裏の境界を突破すること、両面にその痕跡が残ることに、絵画との大きな違いがあります。「つまり、人の表情と内面の行き来とおなじことが起きているわけです」という指摘は、とかく芸術よりは下のものと見なされる手芸の奥深さに気付かせ、心に残りました。
絵描きにとって画材の選択は重要ですが、鴻池さんは震災後、キャンバスではなく、動物の皮をつなぎあわせた上に描くようになります。それは「空白の矩形」という境界を突破する行為として意味があり、昨年、カンザスの博物館でジオラマのなかにオブジェを設営するインスタレーションワークをおこなったのも、その延長上にあることが、お話を伺ううちにわかってきました。
つまり、彼女のおこなうことに、何ひとつつながっていないものはないのです。
このように整理して述べると、すらすらと物事が進んだように思えますが、実際にはなかなかつらい6年間だったと振り返ります。言葉で自分を追い込んでしまう息苦しさ、直観力をストレートに出せない閉塞感があったのでしょう。
でも、立ちはだかる壁を突破するのに、言葉の力が求められることがあるものです。
そこで挫折せずによじ登っていく人は、必ずや自分の言葉をつかんで制作にもどってきます。鴻池さんのお話しを聞きながら、そのことを強く感じました。
観客の集中度は高く、2時間があっという間でした。
それは鴻池さんが用意された言葉を語るのではなく、こちらの投げかけた問いが自分のなかに引き起こす感情の波紋や考えを、できるだけ的確に言葉にしようと努めてくださったことが大きかったと思います。
言葉が生まれる瞬間や、それを繰り出そうとする人の表情を目撃する場が「ことばのポトラック」であり、6年前の3月に集まりましょうと呼びかけたのも、戸惑っていたらその顔を見せに来てください、ということだったのではないかと、今さらながら気付かされました。
顔を合わせて言葉を交わすことの大切さは、この先ますます高まるでしょう。「ことばのポトラック」が、ささやかながらその務めを担うことができればうれしいです。(大竹昭子)